盗むのは悪いこと?
なぜ盗むのか?
それは盗んででも欲しい物だからだ。
しかし、盗もうとしている物に10年後も価値を感じられるだろうか?
人の価値感は変わる。5年、10年前に欲しかった物が今はそれほどでもないという経験は珍しくないだろう。
ならば、今欲しい物が、10年後は下らない物になっているかもしれない。
もし、盗みをしてしまったら、残るのは下らない物と、その為に盗みをしたという事実だ。
あなたが今盗もうとしている物に、この先ずっと価値を感じられるだろうか?
その自信があるならば、道徳的な問題があるとは言え、盗みも1つの手段だろう。
しかし、その自信が無いのであれば、一度立ち止まって、考えてみるのも良いかもしれない。
人はなぜ人を傷つけるのか?
人間の快楽の為に動物を傷つける行為が人間同士でも起こっているからだと思う。
人類は自らの快適さと引き換えに動物を搾取する。住処を奪い、食べる為に拘束し、人類の健康の為に実験台にする。つまり人を上、動物を下として扱う。
さらに動物の中でも大切に扱うべきものとそうでないものの順位をつける。
上から大切な順に並べると以下のようになるだろう。
・愛玩動物
・家畜動物
・実験動物
生物に順位をつけて扱いを変えるなら、同じように人にも順位をつけて扱うのは不思議では無いと思う。
例えば上から大切な順に並べるとこうだ。
・自己
・家族
・民族
・他国民
自分にはできない扱いを他人にはできる。同じ国民にはできないことを外国人にはできる。
殺人、搾取、他国民への虐殺など例は歴史上いくつもある。
「動物を殺すのを止めるべきだ」と言いたいのではない。私が言いたいのは人が自らの為に動物を傷つける以上、それと同じ行為を他人に対しても行っているだけだということだ。
緊張しない方法
「どうすれば緊張せずに済むか?」その方法を書くつもりはない。
そもそも「緊張は悪い状態である」という考えが間違っている。
緊張は良いものである事は実証されている。それを示した理論が「ヤーキーズ・ドットソンの法則」だ。
この理論では適度に緊張していた方が、全く緊張していない状態よりも高いパフォーマンスを発揮することを示している。
緊張とは、そもそもどんな現象なのだろうか?
ホルモン的に言えばノルアドレナリンが分泌されている状態だ。ノルアドレナリンは分泌されることにより、集中力・身体機能が向上する。
ざっくり言うと「緊張すること」は「集中すること」である。「緊張しやすい」のは「集中しやすい」ということだ。
「緊張とは集中している状態である。」こう考えることが重要だ。
(参考文献)
樺沢 紫苑(2018)いい緊張は能力を2倍にする 文響社
勝ち組と負け組の違い
勝ち組とは何だろうか?
負け組とは何だろうか?
そもそも「勝ち」だの「負け」だの、あなたは誰と戦っているのだろうか?
「勝ち・負け」という考えをしている以上、誰かしらと「勝負」をしているはずだ。その競争相手は誰なのか?
「世間だ」そう答える人がいるかもしれない。
確かにあなたは世間と争ってるかもしれない、しかし世間はあなたにそれ程興味を持っているのだろうか?
仮に私が野球を始めたとしよう。そこで「ライバルは大谷選手だ。」と声高に叫んでも、大谷選手からすれば私なんぞ眼中にない。
同様に「私は世間と戦っている。そして世間に勝って勝ち組になるんだ。」と言っても、世間にとってみれば自分はそんなに関心を持たれる人間ではないかもしれない。
「勝つ」「負ける」の前に、勝負の土俵に上がっているのだろうか?
後悔しない人生を送る方法
後悔しない人生を送る方法は、「後悔しないこと」だ。
「何を言っているんだ?」と思うだろうから、詳しい説明をしていこうと思う。
そもそも後悔は、なぜ起こるのだろうか?
失敗をしたり、予想より上手くいかなかったりした時だろう。
例えば、受験で失敗した時なんかは後悔しないだろうか?私はした。「もっと勉強しとけば良かった。」と後悔する。
その時に私は何に後悔しているのだろうか?
過去の行動に対して後悔している。ここで言えば勉強をサボったという行動だ。
それに対してなぜ後悔しているのか?
過去の行動は変えられないからだ。
「過去の行動は変えられない。」これは確かなことだ。
しかし、「後悔する」という行為は現在の行為だ。つまり変えることができる。
「受験で失敗した。」という過去の事実は変えられない。また、「勉強をサボった」という過去の行動も変えられない。
だが、それに対して「もっと勉強しとけば良かった。」と後悔することもできるが、「まぁ仕方ないか。」と後悔しないこともできる。
後悔する、しないは今の自分が選べるのだ。
後悔しない方法は「後悔しないこと」。要は気にしないことだ。
人の命の値段はいくら?
2億4,266万4,000円
これが人間1人当たりの値段だ。
しかも一部の反社会的勢力や民間企業が出している金額ではなく、国の機関である国土交通省が公式に発表している価格である。
注意してほしいのはこの金額は私が国土交通省の資料から計算したものであり、かつこの金額で人が売買されているとか、殺人の権利が与えられるという話ではない。
そもそも、どのような方法でこの値段を算出したのか?
この値段は交通事故減少便益の人的損失と精神的損失を足した数値だ。
「訳の分からない用語が色々と出てきた」と感じる方もいると思うので、大雑把にではあるが1つづつ説明していく。
まず、交通事故減少便益とは交通事故が起こる事によって発生する損失だ。
例えば、事故によって街灯が壊れればそれを修理するお金が掛かる。この金額が損失になる。
他にも事故で渋滞が起これば、事故が起きなければ出来た分の仕事が出来なくなる。仮に椅子工場の作業員が全員事故の渋滞に巻き込まれて1時間遅刻したとする。その1時間で椅子が20個作れるとしたら、本来作れたはずの椅子20個が失われたという事になる。
次に、人的損失とはもしその人が死なずに働いていれば生み出せた価値だ。
そして、精神的損失とは「交通事故の死亡リスクを削減する為にいくら税金を使うべきか?」というアンケートの結果を基に計算した金額だ。
この人的損失と精神的損失の金額に他の数値を足して、コストパフォーマンスを計算し、その結果を基に道路の安全性を高める工事をするかどうか決める。
最初に書いた2億4,266万4,000円は上記の人的損失と精神的損失を足した金額だ。
つまり、「その人が社会の為に創り出せる価値」と「国民が交通事故の死亡リスクを削減する為に使うべきだと思う税金の金額」を足し合わせ金額だ。
これが高いか安いかは分からない。しかし、この金額を基に現実の安全対策は実行されている。つまりは人命を金額として数値化した上で考えられているという事だ。
(参考)
国土交通省 『交通事故減少便益の原単位の算出方法』http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/hyouka-syuhou/4pdf/s2.pdf
「熊を殺すのは可哀想」じゃあカラスは?
人里に降りた熊が猟友会に射殺されたニュースを知って、「熊が可哀想だ」とか「殺すなんて酷い」と非難する人がいる。
そんな人達はカラスに対してはどのように接しているのだろうか?
熊を殺すことに反対する人の主張はおおむね以下の様なものだろう。「熊が人里に降りてくるのは人間が山を開拓して、山に十分な食べ物が無くなった為だ。人が原因で人里に熊が出没しているのに殺すのは酷い。」
私も一部は同意する。殺される熊は可哀想だし、人間のせいで空腹になった熊を殺すのは酷い行いだ。しかし、猟友会を非難する資格は無いと思う。
熊の射殺に反対する人はカラスに対してどのように接しているのだろうか?
カラスへの餌やりは多くの地域で禁止されている。ゴミ出しのルールでもカラスがゴミを漁らないようにネットを掛けるよう指示されている。
これらの理由はなんだろうか?1つはゴミを荒らされると町が汚れるからだ。2つ目はカラスが増える事によって糞害や騒音に繋がるからだ。
食べ物が無ければ空腹になり、死ぬ。こんなことは誰でも知っている。生きる為にカラスはゴミを食べる。ゴミはカラスが食べなくても燃やして灰にするだけだ。それすら食べさせない。これが人里に降りた熊の射殺とどれ程違うのだろうか?
「食べ物をあげないのは間接的に死ぬ理由になるかもしれないが、射殺のように直接殺した訳ではない。」という反論があるかもしれない。それは尤もな意見だ。
だが、人間の動物への対処法だけを比べてどちらの方が良いかは判断できない。判断をする為にはそれぞれの動物の状況、人間に与える可能性のある害、動物への対処法の3点が必要だ。サバンナにいるライオンの射殺と動物園にいるウサギの射殺を同じ射殺なのだからどちらも同じくらい可哀想という判断にはならない。
では、熊とカラスの境遇を比較してみよう。
人間が山を開拓したせいで住処や餌を奪われた為に人里に降りた点は両者共に同じだ。
人間の動物への対処に関しては熊は殺されるが、カラスは食べ物を与えられないだけで殺されはしないという違いはある。
人間が受ける害に関してはは、熊は人を殺すが、カラスはゴミを散らかすか糞で町を汚すか、精々絆創膏すら要らないような攻撃をされるだけだ。
これらを比べた時に熊とカラスの扱いに大きな差はあるのだろうか?
人を殺す可能性のある熊に対しての射殺は正当性は無いが、町を汚すカラスが生きる為に食べようとするゴミを食べさせないようにするのは正当性があるのだろうか?
「人の命を危険に晒しても熊を殺すべきではない」という程に慈悲深い人が「カラスが生きる為に漁ったゴミを片付けるのは煩わしい」と感じる訳が理解できない。