安酒一杯

「常識で考えろ!」「普通に考えたら分かるだろ!」子供の時に怒られた。でも、「常識」ってなに?「普通」って?大人になってから考えてみた。

将来役に立たないものを勉強する理由

『サインコサインを勉強して、社会人になっていつ使うんだ?』

『将来役に立ちそうなものを教えれば良いのに。』

こんな疑問は学生の時に多くの人が持つのではないだろうか。私も同じ事を思った。

結論を言うと、学校の教育科目は『国力を上げる為にどんな能力を持った人が必要か』で決まり、『個々人にとって必要な能力は何か』はどうでも良いのではないかと考える。

そもそも長い歴史の中で昔から学校は役に立たないものを教えていたのだろうか。過去に学校が、何の教科を、何の為に教えていたかを調べてみた。

 

古代ギリシアのギュムナシオン(紀元前)…肉体鍛錬、哲学、文学、音楽

・中世ヨーロッパの大学(12世紀)…リベラルアーツ、神学、法学、医学

・江戸時代の寺子屋、藩校(18世紀)…読み書き、算盤、道徳、儒学(藩校のみ)

 

学校の性質が時代毎、国毎に違う点は注意が必要だ。その上で教育内容は似通ったものがありつつも、殆どバラバラだ。どうも学校で教えている国数理社が絶対的な教科では無いらしい。それぞれがどの様な背景でこれらの科目を選択したのかを調べてみた。

中世ヨーロッパは農業革命が起こった影響で食料が増加した。それにより人口が増加する。少人数で多量の農作物を収穫出来るようになった影響もあり、既存の職業だけでは増加した人口を賄えず、職に溢れた人が出てきた。

そこで職の分化が行われた。例えば今までは農家と物作りの兼業が当たり前だった状態から、農家一本でやる人と物作り一本でやる人に分かれた。その職の分化により、専門性が求められる様になる。

その結果、知識を持った職業人のニーズが高まった。その中でも特に人気だったのがキリスト教聖職者、法律家、医者だった。それぞれの職に就く為に、神学、法学、或いは医学を学びたがる人が都市に集まった。そして教師を招いて講義を開いた。

システムとしては学生が受けたい講義に参加し、その教師にお金を払う。学生が沢山集まればお金になるし、少なければお金にならない。教師としては多くの収入を得る為にも学生が聞きたくなる講義を開く様に努力する。

要約すると社会において知識を持ったキリスト教聖職者、法律家、医者へのニーズが上がった。その分報酬や社会的地位も上がった。学生は専門的知識を得て、職に活かす為に学んだ。そして教師は収入の為にも学生に役に立つ講義を行う努力をした。

では江戸時代の場合はどうだろうか?

江戸時代は封建社会(大まかに言うと主従関係が強い社会)だ。そんな社会の中で生きる術や道徳を知らなければならない。しかし、親は仕事があり教える余裕が無い。 それを代わり教えたのが寺子屋(庶民の学校)だ。寺子屋では読み書き、算盤、封建社会を生きる上での道徳、生活の知恵を教えた。

寺子屋の教師もまた、生徒の親から報酬を得ていた。自分の寺子屋に通ってもらう為にも生徒が将来活かせる内容を教えなければならない。また教師には地域のお金持ちが就くこともあった。これは教師が名誉ある職だったからだ。

一方、藩校(武家の学校)では儒学を中心に教えた。儒学が選ばれた理由は統治者が学ぶべき内容だとして幕府が推していたからだ。

寺子屋、藩校どちらにせよ、学ぶ側が使うであろう知識を教えていた。

中世ヨーロッパの大学と江戸時代の寺子屋・藩校に共通して言える事は以下の3点である。

(1)学生は将来活かせる学問を学んだ。

(2)教師は収入や名誉の為に授業をした。

(3)学生が集まるかどうかは教師の授業内容次第だった。

上記の3点から教師は収入や名誉の為に学生を集めようとした。その為に学生が将来使える学問を教える様に努力した。

今の学校と比べてどうだろう?今は将来活かせる学問を勉強すると言うよりも、何で必要か分からないものを『勉強させられている』状態ではないだろうか?では現代日本と過去の学校とは何が違うのだろうか?

その1つは『義務教育』の導入だろう。義務教育が導入される前は個人が必要だと思う学問を選び、それを学べる場所や先生の所へ行き、お金を払って教わっていた。

では、なぜ『義務教育』が導入されたのだろうか?義務教育が日本で始まったのは明治時代初期(19世紀)である。この時代は鎖国していた江戸時代にペリーの黒船をはじめとする海外勢との接触により、日本と外国との差に強烈な危機感を持っていた時期である。それに対抗する為の動き(所謂、富国強兵)の1つが『義務教育』である。

『義務教育』の目的は以下の3点だ。

(1)子供を保護し、劣悪な環境下で働かせない様にする。

(2)地域毎に教育内容の偏りが出ない様にする。

(3)海外に負けないように国を強くする。

国を強くする為には何をすれば良いのだろうか?そもそも国の力とは何だろうか?国力とは大まかに言うと軍事・技術・経済の3つで形成される。この3つ全てに影響するのが『国民』の能力だ。この『国民』の能力を上げる為に教育が実施された。そしてその教育内容は国力(軍事・技術・経済)が上がるような学問を選択した。

この明治時代から国数理社、道徳、体育、音楽、外国語を教えるようになった。また、第二次世界大戦頃には家庭科が追加された。そして、現代の2020年にはプログラミングが義務教育に加わる予定である。

過去の学校教育と現代の学校教育の違いをまとめると以下のようになる。

 

・過去の学校教育(義務教育導入前)…教師が収入や名誉の為、生徒に教える。国は関係ない。

・現代の学校教育(義務教育導入後)…国が国力を上げる為、国民が勉強する環境を整える。

 

現代の学校教育は国力を上げる為のもので、個人レベルで必要不可欠な能力を教えるものではない。全体の中で何人か国にとって必要な能力を持った人が現れればいい。社会人になってサインコサインを使う事は滅多に無いだろう(少なくとも私は一度も使ってない)。

しかし、そのサインコサイン或いはそれ以上のレベルの数学の能力を持った人は国の技術力・経済力にとっては必要だ。100人に算数を教えて、99人が嫌いになっても、1人が極めてくれればそれで良いのだ。

では何の為に勉強をするのか?それはあなたが何をやりたいかによる。勉強はつまるところ自分がやりたいことをする為の手段だ。

ただ、事実として勉強をすればレベルの高い大学(大学院)に入れる。レベルの高い大学(大学院)を卒業すれば、良いとされる企業に入れる。良い企業に入れば、高い報酬や地位・名誉が手に入る。

要するに勉強することで高い報酬や地位・名誉が手に入りやすくなる。これに魅力を感じるか感じないかという話だ。

勿論、勉強する人が全て金・地位・名誉を目的にしているわけではない。また、国数理社という科目は、それらとは関係無しに学ぶ価値があると思う。その話はまた別でしようと思う。

結論として『なぜ将来役に立たないことを勉強させられるのか?』に対する答えは、学校教育が国力を上げる為のものだからである。その国力の向上に貢献する能力を持った人を必要な数だけ育てることが目的だからである。その為、教育内容が個々人にとって必要不可欠かは考慮されていないからである。私はそう考える。