安酒一杯

「常識で考えろ!」「普通に考えたら分かるだろ!」子供の時に怒られた。でも、「常識」ってなに?「普通」って?大人になってから考えてみた。

動物虐待に対する嫌悪感の根拠

動物虐待に関する話題を知ると酷く嫌悪感を覚える。当たり前のように感じるが、なぜこのような嫌悪感を抱くのか?

私の結論は次の通りだ。この嫌悪感は動物虐待という「行為」そのものを嫌悪しているのではない。また、動物の視点で見た時に動物が可哀想だからという理由でもない。痛めつけようという人間の「目的」に対して嫌悪するのだ。

動物を意図的に苦しめる行動というのは虐待以外にもある。それは動物実験だ。医療や科学技術発展の為に動物を敢えて病気にしたり、体の一部に機械を取り付けるという行為をする。これに対する不快感と動物虐待への不快感はどちらが強いだろうか?恐らく後者の方ではないだろうか。

しかし、この2つは何が違うのだろうか?動物を意図的に苦しめるという意味ではどちらも同じ行為だ。どちらが動物に対し苦痛を与えているかで比べたとしても虐待の方が圧倒的に上だとは言えないのではないか。

では、次の2つの例はどちらが不快だろうか?

 

・飼い犬に麻酔を打ち、首を切り落とす。その上で燃やす。

・養豚に麻酔を打ち、首を切り落とす。その後に一部の肉を飲食店に売る。飲食店はその肉でトンカツを作る。注文した客は満腹になったので、トンカツを半分残す。店はそれを捨てる。

 

この2つは何が違うのか?「行為」としてはほぼ変わらないのではないだろうか。「動物からの視点」でもされている事は変わらないだろう。しかし、前者の方が不快感を抱く。

後者の文章は経緯が詳細に書かれている為に不快に感じやすいので前半部分を省略した文章にして、前者の犬の例と並べてみる。

 

・飼い犬に麻酔を打ち、首を切り落とした上で燃やす。

・トンカツを注文したが、食べてる途中で満腹になったので、半分残して捨てる。

 

トンカツが豚から作られている事を殆どの人は知っているだろうし、その為に豚を殺している事も知っているだろう。それでもやはり前者の犬の方が嫌悪感を抱くし、後者には下手をすると何も感じない。

この違いは何だろうか?

これは「目的」だと思う。

犬の例は殺すことを目的にしている。だが豚の例は食べることを目的にしている。もし最初から食べる気がなく捨てる事を目的に豚を殺し、トンカツにした上で捨てた場合は、犬の例と同じ不快感を抱くだろう。

最初の動物実験の例もそうだ。行為の目的が苦しめる事ではなく、医療・科学の発展だから不快感を抱きづらい。

動物虐待の何に嫌悪感を抱いているのか?

これは殺しや苦痛を与える「行為」ではない。「動物からの視点」でどう感じているかでもない。人間がその行為をする「目的」だ。

言い換えると、その行為をした人間の考えや感情に対して嫌悪しているのであり、そこに動物の感情というのは考慮されていない。動物への慈悲の為に嫌悪感を抱くのではない。

 

人殺しはなぜいけないのか?

「人殺しは悪いこと」というのは多くの人に共通する認識だろう。私もそう思う。

だが、なぜ「人殺しは悪い」とされているのだろうか?

信仰する宗教によっては「神がそう言ったから」というのが理由になる。では、そういった宗教を持たない人にとって「人殺しは悪い」という根拠は何なのだろうか?

私の意見は「平和を脅かすから」だ。詳しく言うと、「罪の無い人々が安心して暮らせる社会を壊す可能性があるから」だ。

この様に考える理由について、これから説明していく。

一般的に「人殺しは悪い」とされる。一方で、良いとされる人殺しもある。良いというのは「積極的にやれ」という意味ではなく、やむ終えずしなければならない為「悪い事ではない」という意味でだ。

その良いとされる殺人は例えば以下の3つだ。

・正当防衛

・戦争

・死刑

勿論、これらの殺人にも反対意見はある。だが悪事を働いた訳でもない人を殺すことに比べると、上記の3つは良いという意見を持つ人は多いだろう。

上記の3つに近いものの、悪い事だとされる殺人がある。

・過剰防衛

・戦争下での虐殺(例)ベトナム戦争におけるアメリカの行為

・身体的苦痛を与えることを目的とした死刑

これらの違いは何なのだろうか?「殺人」という行為自体が悪なのではなく、どこかしらで線引きされた基準によって「良い」「悪い」に分けられている。では、その線引きはどこで行われているのか?殺人が「良い」になる条件は何で、「悪い」になる条件は何なのだろうか?

この条件が「平和を脅かすか、否か」ではないかと思う。つまり「罪の無い人々が安心して暮らせる社会を壊す可能性が有るのか、無いのか」だ。

まず、殺人は平和を脅かす行為だ。誰がお金欲しさやストレス発散などの為に殺人が行われれば人々安心して暮らせない。平和を脅かすから悪だ。そして、こういった行為は起こらないようにしなければならない。その為に殺人者には罰を与える。

しかし、上記の良い殺人(この言い方は倫理上よくないだろうが、説明を分かりやすくする為にこう表現する)はどうだろうか?

例えば正当防衛、これは平和を脅かす行為だろうか?安心して暮らせる社会が崩れる原因になるだろうか?答えは否だ。包丁を持って、人を刺しながら暴れる男を棒で頭を叩いて殺してしまっても平和を脅かしたとは言えない。むしろ、平和を脅かす存在(包丁を持った男)から社会を守った。だから、悪い事とはされない。

戦争や死刑も同じ様に平和な社会を脅かす存在を排除する目的で行われるから、悪いとされることが少ないのだろう。

だが、良い殺人に似ているものの悪いとされる殺人はどうだろう。

例えば過剰防衛、これは行った側の方が平和を脅かす存在になる。お酒のトラブルで揉めて殴られたとしても、その仕返しに複数人で滅多刺しにすれば、刺した側の人が社会にとっては脅威だ。

戦争下での虐殺も同じ理由だ。アメリカ軍がベトナム戦争で行った行為にソンミ村虐殺事件というのがある。簡潔に言うと、アメリカ軍兵士がベトナムのソンミ村を襲い、非武装で無抵抗の住民を成人、子供、乳幼児、男女関係無く無差別に殺した事件だ。これには国外からだけでなく、アメリカ国内からも批判が相次いだ。

また、捕虜の殺害も戦時国際法で禁止されており、イラク戦争におけるアブグレイブ刑務所での捕虜の虐待、殺害も同様の批判を受けた。

武装時は平和を脅かす存在として認識されるが、武装を解除した以上は脅威が無くなったのだから、そういった存在を攻撃するのは平和を守る行為ではない。むしろ、攻撃出来ない人を攻撃する、またはそのような行為を認める方が社会にとっては脅威だ。

同様に、死刑においてより効果的に身体的苦痛を与えることも禁止されている。もっと言えば、死刑ではいかにして身体的苦痛を与えずに殺せるかが考慮されているぐらいだ。これも社会の脅威を排除する目的と身体的苦痛を与える行為が合致しないからであろう。

このように人殺しがいけない理由は「平和を脅かすから」であり、詳しく言えば「罪の無い人々が安心して暮らせる社会を壊す可能性がある行為だから」だと考える。

「最近の若者はすぐ仕事を辞める」って本当?

これは嘘。

「最近の若者の3年以内の離職率は約3割。根性がないから、すぐ仕事を辞める。」

これは全くの嘘である。

どこが嘘かと言うと「最近の若者の離職率が約3割」という箇所だ。

若者の離職率は30年以上前(バブル期)から約3割である。

以下に厚生労働省の「新規学卒者の離職状況」に記載されているグラフのURLを貼っておく。

 

『学歴別就職後3年以内離職率の推移』

https://www.mhlw.go.jp/content/11650000/000369541.pdf

 

見て頂くと分かるが、大卒の離職率はバブル期の昭和62年〜平成2年ですら3割近い。25%を下回ったのはバブル崩壊後の3年間(平成3〜5年)のみだ。

離職率が3割近い事を根拠に「若者は根性がない」という結論を出すのであれば、若者はバブルの頃からずっと根性なしである。

 

ストレスは悪いもの?

実は、ストレスは悪いものではない。

「でも実際に、ストレスが原因でうつ病パニック障害が発症する事例があるじゃないか。」

そういう意見があるのではないだろうか?

これはストレスが原因になっているのではない。

「ストレスは悪いものだ」という考え自体がストレスがかかった時に悪い影響を与えているのだ。

この論は心理学者のケリー・マクゴニカル氏が提唱している。Wikipediaにも載っているし、気になる人は調べてみてほしい。

大まかに説明すると、「ストレスは悪だ」と考えている人はストレスが重いと死亡率が高い。しかし、「ストレスは悪いものではない」と考えている人はストレスが重くても、死亡率は非常に低い。

また、別の例では「ストレスは悪いものだ」と考える人がストレスを受けると、心拍数の上昇や血管の収縮という悪い症状が起こった。それに対して、「ストレスは良いのものだ」と考える人がストレスを受けると、その様な悪い症状は見られなかった。

つまり、ストレスによる悪影響はストレスそのものよりも、「ストレスは悪だ」という考えに原因がある。

でも、個人的な意見ではストレスを回避することも大切だと思う。

ストレスは悪じゃないからといって、いじめやパワハラ、セクハラに耐える理由にはならないだろう。洗濯機を使えばいいものを手洗いに変えて、わざとストレスがかかる方法を取る必要は無いと思う。

大切なのは、ストレスがかかっている状態を「これは良くない状態だ。」とか「このままだとうつ病になってしまう。」と思い詰めないことだ。

「お客様は神様です」の真意。

コンビニやファストフード店などで「お客様は神様だろ!」という態度で店員に接する客を稀に見かける。

その様な光景を見て、呆れた人もいるだろう。

そもそも「お客様は神様です」という言葉は誰が、どんな目的で、どういった意味で言ったのだろうか?

この言葉は、ある演歌歌手が最高のパフォーマンスを発揮する為の心構えとして言ったものだ。

その演歌歌手とは三波春夫さんだ。

詳しくは御本人のオフィシャルサイトの中で、 “「お客様は神様です」について”に記載されている。

このサイト内で上記のフレーズについて取材された際の返答が書かれている。

 

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』

 

まず「完璧な藝を見せる」という目的がある。その為には、神前で祈るときのような、雑念を払って澄み切った心にならねばならない。その為に、お客様を神様とみて、歌を唄うのだ。

そして「演者にとって」お客様を歓ばせるということが絶対条件。だからお客様は絶対者。絶対者=神様というわけだ。

お客様が偉いから神様とは書かれていない。

さて、コンビニ店員にとってお客様を歓ばせるのは絶対条件だろうか?

答えは「No」だろう。

勿論、お客様に歓んでもらえる様な接客をするのは素晴らしいと思う。しかし、絶対条件かと言われれば違う。コンビニ店員の絶対条件は物を売る事だ。その物を手にいれることに対して、客は対価としてお金を払っている。

それ対して、演者の場合はどうだろうか?客は何に対してお金を払っているのだろうか?それは「感動」や「喜び」、或いは「楽しみ」だ。だから、演者にとって客を歓ばせるのが絶対条件なのだ。

コンビニやファストフード店に「感動」を買いに来てる人がいるだろうか?そうであれば、何も物を受け取らず、接客だけ受けて金を払って帰ればいい。物は受け取って、さらに感動まで寄越せというから変になるのだ。

勿論、高いレストランに行ってサービスが余りにも悪ければ文句を言ってもいいだろう。そこには出される料理以外に丁寧な接客という「感動」にもお金を払っているのだから。

「お客様は神様だ」と客側が言うのであれば、自分がキチンと「感動」に対してお金を支払っているかを考えなければならない。

高いサービスを受けたければ、ファストフード店ではなく、銀座の高級レストランに行けばいい。どうしてもファストフード店で良質なサービスを受けたいのなら、1万円でもチップを先払いすればいい。そうすれば店員も懇切丁寧な対応をしてくれるだろう。

見合った対価(お金)を払わず、「これをくれ」「あれしてくれ」というのは神様ではない。乞食(こじき)だ。

むしろ、金品を受け取らずとも人に奉仕する方が、よっぽど神様に近いと思う。

デザートを最後に食べるのはなぜ?

デザート(甘いもの)は美味しい。

美味しいのだから先に食べればいいじゃんと思うが、その様な食べ方は一般的ではないようだ。これをやろうとして親に怒られた人もいるのではないだろうか?

世界の料理を見ても甘いものは最後に食べることが多い。

なぜ甘いものは最後に食べるのだろうか?

これは食事を美味しく感じる為である。

具体的に言うと2つの理由がある。

1つ目は甘いものを食べると満腹になってしまうからである。

甘いものには糖分が含まれる。糖分を摂ると血液中の糖分の量(血糖値)が上がる。この血糖値の上昇を脳内の満腹中枢が感じ取ると「お腹いっぱいです。」という指令が出る。

お腹いっぱいだと料理は美味しくなくなる。だから甘いものを先に食べないのだ。

もう1つの理由は「食事の最後がどの様に終わったか」がその食事の良し悪しに大きく影響するからだ。

つまり、最後が美味しいで終われば食事全体が美味しかったと感じ、最後が不味いであれば食事全体が不味かったと感じる。

これはピーク・エンドの法則と呼ばれるものである。

ピーク・エンドの法則とは自分の経験をピーク時と終わり際(エンド)だけで、その良し悪しを判断してしまうという心理現象だ。

言葉だけだと分かりにくいので、ピーク・エンドの法則を提唱したダニエル・カーネマンの実験を挙げる。

 

何人かの被験者に2パターンの体験をしてもらった。

(A )痛い程に冷たい水に60秒間手を浸す。

(B )痛い程に冷たい水に90秒間手を浸す。スタートして60秒間は(A)の時と同じ冷たさで、その後の30秒間は温度を少し上げて(A)の時程は痛くない冷たさにする。

この2つの体験をした後に、被験者にもう一度受けるなら(A)と(B)どちらが良いかを聞いた。

さて、被験者はどちらを選ぶだろうか?

一見すると全員が(A)を選びそうである。(B)の方は(A)と同じ痛みに60秒耐えた後、痛みは減るとはいえ30秒間追加で耐えなければならないのだから。

しかし、結果は8割以上が(B)を選んだ。

 

これは何を表しているかというと、人はどのくらい不快に感じたかを受けた痛み総量ではなく、1番痛かった時と終わり際の痛さを平均して判断しているということである。

(A)はピーク時の痛みと終わり際の痛みがほぼ同じである。なので、平均するとピーク時とほぼ変わらない痛みだったと記憶する。

それに対して(B)はピーク時の痛みより、終わり際の痛みは軽減されている。平均するとピーク時程の痛みはなかったと記憶する。

結果、(B)の方が嫌ではないと感じるのだ。

つまり、最後がどうだったかが経験の良し悪しを記憶するのに大きく影響している。

食事であれば、最後が不味い料理であれば1番美味しかった時と最後の不味さを平均してその食事全体がどうだったかを記憶する。

逆に言えば、最後が美味しければ、1番美味しかった時と平均して、その食事全体が良かったと記憶しやすい。

だから美味しいデザート(甘いもの)は最後に食べた方が良いのだ。

結論として、デザート(甘いもの)を最後に食べる理由は

(1)糖分を摂って他の料理を食べる前にお腹いっぱいにならない様にする為

(2)最後に美味しいものを持ってきて、食事全体が良かったと脳に記憶させる為

の2つである。

 

(参考文献)

ダニエル・カーネマン(2014)ファスト&スロー(下)あなたの意思はどのように決まるか?早川書房

学校って何?

「勉強する場所」

「友達をつくる所」

そんな意見が多いのではないだろうか?

でも、勉強するのなら塾や家でだってできる。

友達をつくるのも習い事や地域の集まり、ネット上でもできる。

では、学校とはどんな所なのだろうか?塾やネット上には無い、学校にしかない部分を明確にしようと思う。特に日本の学校の特徴について調べてみた。

 

(1)1対多で教えている。1対1ではない。 

メリットとしては一度に大勢に教えられる。逆に一人ひとりの習熟度に合わせて教えづらい。

(2)決められた集団で行動する。

 結果として効率良く動く為に、時間を守ることを強制される。また、好きでもない人と一緒に過ごす。

(3)国全体に共通した内容を教えられる。それも決められたスピードと量を教えられる。

例えば、中学2年生の数学では連立方程式と一次関数、三角形、確率を教えるといった形だ。

 

学校にしかない特徴的な点は上記の3つではないかと思う。

では、これらにどんなメリットがあるのだろうか?

これは1980年代のものづくりの時代に求められた人材を育てることだと考える。

この時代はいかに安く、大量の製品を作るかが世界と競争する上で重要だった。

そんな状況ではどんな人が必要とされるだろうか?

それは集団の中で同じ様な作業を周りと合わせながらできる人だろう。そして、その様な状況では似通った知識を持っている事が重要だった。

なぜなら、仕事を教える上で同じ内容を伝えればよく、一人ひとりに合わせる必要がないからだ。

例えば、「中学を卒業した人は皆が大体こんな知識を持っているから、仕事をする上ではこれを教えればいい」と決めるられる。

これは人材育成において効率的だ。

上記の様にものづくりの時代では学校生活は役立った。

では、現代はどうだろうか?

産業の主流はものづくりからコンピュータやネットなどのサービスに移っている。 

そんな中で求められるのは創造力を持った人だ。

実際に「もっと生徒の個性を伸ばすべきではないか」という意見から学校を変えようとする動きもある。

話が逸れたが、学校というのは会社や集団に馴染む方法・知識を学ぶ場所だと思う。